大猷院と家康の墓|日光ヒストリア

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祖父と孫、二つの霊廟の力学

「祖父を超えるな」と言われて建てた廟が、結局いちばん贅沢に見える。

東照宮から歩いて数分、輪王寺大猷院(たいゆういん)は三代将軍・徳川家光の廟です。派手さでは東照宮に及ばないはずなのに、 訪れた人の多くが「こちらのほうが豪華に感じた」と口にします。その理由と、東照宮そのものにまつわるもっと大きな謎—— 家康の遺骸は本当にここにあるのか——をたどります。

大猷院

「東照宮を超えてはならない」という遺言

朱と黒漆、金の意匠で彩られた大猷院の社殿
大猷院黒地に金を重ねる意匠

家光は生前、「自分の廟は東照宮より簡素にせよ、祖父の権威を超えてはならない」という趣旨の遺志を残したとされています。 1653年に完成した大猷院は、たしかに東照宮より一回り小ぶりで、社殿の数も少なく、境内の造りも控えめです。

ところが実際に歩いてみると、印象はまるで違います。仁王門から皇嘉門まで、山の斜面に沿って階段状に連なる複数の門。 狩野探幽が描いた唐獅子の襖絵。天井に描かれた140枚もの龍の絵。拝殿と本殿を囲む透塀には、無数の葵の紋が連なります。 「地味にしろ」と言われて造られたはずの建物を前に、多くの参拝者が漏らす感想は、むしろ「こちらのほうが渋くて贅沢だ」というものです。

東照宮

白と金を基調にした社殿。極彩色の彫刻を惜しみなく配置し、「陽」の力強さと権威を前面に押し出す構成。

大猷院

黒漆地に金の意匠を重ねる、いわば「陰」の美学。数を減らし規模を抑えた分、一つひとつの装飾の密度と質感が際立つ。

「規模を超えるな」という遺言は守られた一方で、色使いと密度で東照宮とは違う種類の豪華さを作り出してしまった—— これが大猷院という建物のいちばん面白いところです。さらに本殿は東照宮の方角を向くように配置されているとも言われ、 死してなお祖父を守り仕える孫、という関係性が建築の向きにまで織り込まれているとする見方もあります。

今も決着していない論争

家康の遺骸は、久能山か、日光か。

東照宮のいちばん奥、200段以上の石段を登った先にある「奥宮」の宝塔には、徳川家康の遺骸が納められているとされています。 多くの観光ガイドはそう説明しますが、実はこれには静岡・久能山東照宮側から異論が唱えられ続けています。

家康は死の直前、天海大僧正らに次のように言い残したと伝わります。「遺体は久能山に納め、葬儀は増上寺で行い、位牌は 大樹寺に祀り、一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」。ここで使われている「勧請」とは、神霊を分けて迎えることを 意味し、遺骨そのものを移す「移葬」とは異なる、というのが久能山側の解釈です。つまり遺言のとおりに読めば、遺体は久能山に とどまり、日光には家康の「神霊」だけが分けて祀られた、ということになります。

久能山側がしばしば根拠として挙げるのが、徳川宗家の当主が家康の命日(4月17日)に参拝するのが久能山東照宮のみで、 日光の奥宮には参拝しないという慣例です。もっとも日光東照宮側は当然、奥宮こそが家康公の眠る場所という立場を取っており、 どちらの説にも決定的な物証があるわけではありません。天下人の亡骸の行方が、400年を経てなお完全には確定していない—— これもまた、観光パンフレットにはまず載らない日光の一面です。

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