トップ / 02 起源
東照宮より千年近く古い物語
東照宮の絢爛さに目を奪われがちですが、日光という土地そのものが霊場として崇められ始めたのは、家康が祀られる900年近くも前のことです。 その始まりにある、一人の修行僧と一本の橋、そして数を数えるたびに違う答えが返ってくる石仏群の話をします。
神橋の伝説
奈良時代後期の766年(一説に767年)、日光開山の祖とされる勝道上人は、男体山の登頂を目指してこの地を訪れました。 ところが行く手を阻んだのが、雪解け水で増水した大谷川の激流です。渡る術がなく立ち往生していた上人の前に、 対岸から現れたのが「深沙大王(じんじゃだいおう)」と名乗る神でした。
深沙大王は手にしていた2匹の蛇を放つと、蛇はそのまま川の両岸を結ぶ橋のような形になり、その背には山菅(やますげ)が生い茂ったといいます。 勝道上人はこの蛇の橋を渡って対岸に達し、後に男体山登頂を成し遂げました。このエピソードにちなみ、橋は当初 「山菅の蛇橋(じゃばし)」と呼ばれ、これが今日の「神橋」の由来になったと伝えられています。
この物語は、山岳信仰と仏教(深沙大王はもともと仏教の守護神)が結びついていく過程で形づくられたと見る研究者もいます。神と仏、双方の力を橋の起源に織り込むことで、日光を仏教・神道どちらの側からも聖地として権威づける狙いがあった、という見方です。史実というより、日光の信仰がどのように編み上げられていったかを示す物語として読むのが妥当でしょう。
憾満ヶ淵
神橋から大谷川を1kmほど遡った、憾満ヶ淵(かんまんがふち)と呼ばれる渓谷があります。ここに大谷川沿いにずらりと並ぶ地蔵群こそ、 地元で「化け地蔵」と呼ばれてきた並び地蔵です。
創建は承応3年(1654年)。天海大僧正の弟子・晃海僧正が、師の百人の弟子たちに一体ずつ彫らせたと伝わります。 名物になっているのは「同じ場所から同じ方向へ数えても、行きと帰りで数が合わない」という言い伝えで、これが「化け地蔵」の名の由来そのものです。 実際には、生い茂る木々や苔むした石の陰に紛れて見落としが生じやすいこと、明治35年(1902年)の足尾台風による大洪水で多くの地蔵が流出し、 その後の復旧で位置や数が入り組んだことなどが、噂に信憑性を与えてきたと考えられます。現在は約70体が安置されています。
ちなみに「憾満(かんまん)」という地名も、由来をたどると意外な話に行き着きます。晃海大僧正が、この渓谷を流れる大谷川の音が 不動明王の真言(呪文)の最後の一節「カンマン」を唱えているように聞こえたことから名付けたとされているのです。 観光客の少なさとは裏腹に、二社一寺から歩いてすぐという立地の「静かなもう一つの日光」として、通の間で評価されているスポットです。
二荒山神社
二社一寺の一角、日光二荒山神社は「縁結びの神様」として紹介されることが多いのですが、その由来を知る観光客は多くありません。 御祭神は日光連山そのものと重ねられており、男体山には父・大己貴命(おおなむちのみこと)、女峰山には母・田心姫命(たごりひめのみこと)、 そして太郎山には息子・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)が座すとされ、三つの山全体で一つの家族を形づくっているのです。
境内の「夫婦杉」「親子杉」といった御神木も、この山岳信仰をなぞらえたもの。つまりここでいう「縁結び」は、単なる恋愛成就の ご利益にとどまらず、「自分もまた、数え切れない縁の連なりの先端に立っている」という、生命のつながりそのものへの信仰なのです。 恋愛パワースポットとしての紹介だけで通り過ぎてしまうと、この土台にある山岳信仰の厚みを見落とすことになります。
続き:男体山と赤城山、山の神々の戦争を読む →