トップ / 05 近代
江戸の聖地が、避暑地になった時代
明治になると、日光は思わぬかたちで国際化します。標高の高い涼しい気候に外国人たちが目をつけ、中禅寺湖畔には各国大使館の 別荘が並び、田母沢には皇室の御用邸が置かれました。その始まりにあったのは、東照宮を追われた一人の雅楽奏者の決断です。
金谷ホテルの起源
日本初の外国人向けリゾートホテルとされる金谷ホテルの創業者、金谷善一郎はもともと東照宮に仕える雅楽の演奏者で、 笙(しょう)を吹く楽人でした。転機は、ローマ字表記で知られる宣教師ヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘップバーン)が 日光を訪れた際、宿が見つからず困っているのを気の毒に思い、自宅に泊めたことでした。
ところがこの行動が問題視され、善一郎は東照宮の楽人としての立場を追われてしまいます。それでもヘボン博士は彼の もてなしを高く評価し、外国人向けの宿を開くことを勧めました。1873年(明治6年)、21歳だった善一郎は、東照宮の楽人が 住んでいた屋敷を改装し、「金谷カテッジイン」を開業します。当時は外国人の間で「サムライハウス」と呼ばれていたそうです。 現在地に移って営業を始めたのは1893年(明治26年)のこと。一人の楽人が職を失った出来事が、巡り巡って日本の近代リゾート 文化の出発点になったわけです。
中禅寺湖畔
標高1,269mの中禅寺湖畔は、蒸し暑い東京の夏を逃れたい欧米の外交官たちにとって格好の避暑地でした。先鞭をつけたのは 英国外交官アーネスト・サトウ。1872年に初めて日光を訪れてその魅力に惹かれ、1875年には英文の日光案内書を刊行して、 日光の名を海外に広く知らしめた人物です。彼自身、1896年(明治29年)に湖畔へ別荘を構えました。これが後の英国大使館別荘です。
これに続くように、明治中頃から昭和初期にかけて、各国の大使館別荘が中禅寺湖畔に次々と建てられ、湖は国際色豊かな 避暑地としてにぎわいました。1928年(昭和3年)に建てられたイタリア大使館別荘は、後にモダニズム建築の巨匠として 日本各地に作品を残すことになるアメリカ人建築家アントニン・レーモンドの設計。杉の皮をそのまま外壁の装飾に使うという、 日本の山里の素材を大胆に取り入れた意匠が特徴です。現在はどちらも記念公園として整備され、当時の面影を間近で見ることができます。
田母沢御用邸
1899年(明治32年)に完成した田母沢御用邸は、現存する木造建築として国内屈指の規模を誇ります。全106室、床面積は 約4,471平方メートル。しかしこの建物、実はゼロから新築されたわけではありません。
御座所や御食堂にあたる部分は、もともと紀州徳川家の江戸中屋敷として建てられ、後に赤坂離宮の一部となっていた建物を 移築したもの。さらに皇后御座所には、この土地にあった資産家の別荘が再利用されました。つまり田母沢御用邸は、 江戸時代の大名屋敷、明治の皇室施設、地元資産家の別荘という、出自の異なる3つの建物を組み合わせてできています。 大正時代にはさらに大規模な増築が行われ、1922年に現在の姿となりました。一枚の絵図から立てられた建物ではなく、 いくつもの時代の建築が縫い合わされてできた、という成り立ちを知って見学すると、部屋ごとの造りの違いがまた面白く見えてきます。
続き:日光の職人の技と味を読む →